豊洲の水辺で遊ぶ   ~武器はSUP~   

水辺に囲まれながらも『陸』と『水辺』が断絶された地元豊洲。豊洲を拠点に、もっと水辺と触れ合える機会や場所を作る為のゲリラ活動ブログ。

Struggle for the Future

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先日、私の社会人人生の中で最も感慨深い出来事がありました。

 

 

 

 

テーマ的にこのブログに書くことではなく、自分の胸の内に留めるつもりだったのですが、6年前のある日の「文章」を読み返したとき、胸アツで思わず書かずにはいられなくなってしまったのでした。。。(苦笑) 

 

 
 
 
 

2010年06年14日
 
 決意
 
 
本日の朝会で社内発表をしたのですが、古参の社員が1名退職することになりました。

創業間もないときからずっと一緒にやってきた社員でもあり、かつ私の親友でもあり、長いこと苦楽を共にしてきただけに、非常に複雑な思いでいます。

理由はいろいろありますが、創業に近しいころから今までの長い期間、安い給与で必死になって会社のためにやってきたものの、次第にその情熱や意欲が薄れていってしまい、そんな自分がこの会社に居るべきではないという本人なりの考えがあってのことのようです。

勿論家族も家のローンもある中で、いつまでも会社の将来性に確信が持ち切れないままでいることの不安感や、40歳を間近にして選択の幅が次第に狭まっていくことの葛藤があったのかもしれません。

正直私の中でも、彼だけは絶対に辞めない、そんなことは微塵も考えていないはずだと、どこかにそんな甘えや勝手な思い込みがあり、十分な対話をしてこなかったのかもしれません。

もしかしたら対話というよりも、その貢献に対して十分な対価を提供してきてあげられなかったということの方が大きいのかもしれません。

今回の件で思ったこととして、やはり会社は成長しないといけない。
そして利益を出し、社員、株主に還元していかなくてはいけないということ。

どんなVisionを掲げても、どれだけフラットで社員同士が仲良くとも、社長と社員の距離が近かろうとも、人それぞれ人生を賭して仕事をしている以上、やはり成功し経済的な還元を得られない限りは、その楽しさはいつまでも続かないということ。

誰も単なる中小企業に入りたくて今ここにいるわけではないのです。

だからこそ、経営者として大事なのは、社員に好かれることでも、社員と仲が良いことでもなく、会社を成功に導くこと、そしてその結果で社員に報いることだと、今回の件で改めて気付かされました。

創業から6年半が経過し、当初離職率ゼロだった弊社も、創業期のメンバーでも残っているのはごくわずか。若手を中心の組織に変わりつつあります。

経営者として自分の力が及ばなかったと気付かされます。

私自身、理想の組織を創り上げる、ということを目標の一つに置いてやってきました。

その中に頑張る社員が経済的かつやりがい的にも満たされる組織という要素があります。

正直このままで全員が一定の年齢になり家族を持ちローンを抱えるようになったくらいのタイミングで去っていく、そんな組織になりかねません。

ある意味合理的な会社なのかもしれないが、そんな組織を目指しているわけではありません。

そのためにもやるべきことは一つ。

会社を成長させ、収益力を高めていくこと。

そして頑張る社員にとって常にエキサイティングでかつオポチュニティに溢れる環境であり続けること、それ以外にはありません。

そもそもそれが実現できない限り、私自身も幸せにはなれない。
第一、中小企業のオーナー社長になりたくて起業したわけではないですし。

私も来月で36歳です。

10月か11月にはオフィスも移転します。

心機一転、改めて過去を振り返ることなく、今いるこのメンバーと新たに会社を創業したくらいの気持ちで、再スタートを切ろうと思ってます。

そう考えれば、6年半前の起業時よりも全然ノウハウもあるし、何よりも想いある20名近い仲間がいる、それだけも全然良いスタートが切れるはず。物事は捉え方次第でポジティブにもネガティブにもなる。ポジティブに捉えるべき。


 


ここからはこれから一緒に頑張っていく社員へのメッセージです。

 

将来が見えないことに多少なり不安を感じている人もいるのかもしれません。しかし将来が見えないことは、自分達で如何様にも設定できるということ。

不安は自分達で吹き飛ばすしかありません。

それがベンチャー企業の宿命であり、やりがいだと思います。

自分に逃げ道を用意したら負けです。誰かに依存したり、誰かが成功に導いてくれると思ったら負けです。

私自身、人生を賭してやっていくつもりですので、共に勝つまで戦い抜きましょう。引き続きよろしくお願いします。

 

 



私が新卒で入ったインテリジェンスという会社の同期として内定者時代に出会って以来、仕事の時間は言わずもがなプライベートの時間も含め、20代のそのほとんどの時間を一緒に過ごしてきた友人のよっちゃんが、先日、自分の会社「アトラエ」を東証マザーズに上場させました。
 
 
 
 
私の社会人人生の土台ができる時期に、最も影響を受けたその友人について書きたいと思います。
 
 
 
 
心からのお祝いの気持ちと共に!
 
 
 

 

1998年~2000年

 

 

彼はインテリジェンスに入社した当時から自ら「起業をする」という野心を持ち、例え会社の上司や先輩の言うことであっても、自分が腑に落ちないことはまっこう反発するタイプでした。
 
 
 
 
一方の私は、上司や先輩の指導をそのまま素直に受け入れ猪突猛進に取り組んだものです(苦笑)
 
 
 
 
持ち前の頭の回転の速さから論理的な雰囲気!?で自分の考えを展開する彼に対し、感覚的で受容性が高くジャンル!?的に「アホ」系人材の私は、さまざまなことを彼と議論しては丸め込まれつつも、妙に納得していたように相性が良かったんだと思います。
 
 
 
 
入社2年目になると、彼が入社以来言っていた「起業をする」ということに、半ば巻き込まれる!?ような形で、平日の深夜や週末に2人での議論やミーティングに付き合うようになっていました。
 
 
 
 
そして、当時のインテリジェンス社長であった鎌田さんへの度重なるプレゼンを経て、3年目を迎える頃に、彼は起業の許可!?をとりつけてきました。合わせてインテリジェンスからの出資も決まり、子会社というカタチでありながらもよっちゃんは社会人3年目にして、社長になることになったのです。
 
 
 
 
よっちゃんと私はお互いに仲間を2名づつ集めました。そして2000年秋、「大手企業で駒として働くよりベンチャーで働いたほうが絶対に面白いぜ!」という極めて時代を先取りし過ぎたコンセプト(苦笑)で、20代の若者向け人材紹介会社「インサイトパートナーズ」をスタートするに至ったでした。
 
 
 
 

2001年~2003年 

 

 

インサイト時代の思い出はなかなかシビれます。私はほぼ自宅に帰らず、会社で寝るか仲間の家を渡り歩くような生活。

 
 
 
 
ルーキー社長のよっちゃんは、攻めの姿勢を取り続ける一方、業績は毎月のように厳しく、皆「海で溺れそうになりながら、なんとか息をしている」ような毎日。でも妙な高揚感と一体感で笑い声は絶えず、皆、死ぬほど働いていました。
 
 
 
 
当時、インテリジェンスでは、インサイトと同時期にスタートした1つ後輩達の「エクスぺリエンス」という会社があったんです。彼らはITやWeb業界に特化した人材紹介を展開することで、我々とは真逆でスタートから業績も絶好調(苦笑)
 
 
 
 
気が強くプライドの高かったよっちゃんは、グループ会社を含めた経営会議における自分の会社の業績は屈辱的だったことでしょう。。。それでも本体の役員陣に対して強気に言い切っていたような気もしますが(苦笑)

 
 
 


インサイトでは、20代の未熟な我々にとって良いことも悪いことも含め本当にいろいろなコトが起きました。
 
 
 
 
業績はイマイチながらも(苦笑)我々を通じてベンチャー企業へ転職された方々の入社後の活躍の逸話には事欠かなく、それは我々の誇りでもありました。
 
 
 
 
そして、辛く苦しみながらも「信頼する仲間と一緒に会社を作り上げる」という貴重でかけがえのない時間だった事は間違いありません。
 
 
 
 
業績が上がらないウチは自分達の給与は下げよう!と社員自ら積極的に言うような会社だったんです。
 
 
 
 
「社員全員が強い当事者意識を持つ」という、よっちゃんが作る会社の強みの原点がそこにあったように思います。

 

 

 

 おおよそ3年の月日が経過し、社員も20名近くになりどっこい踏ん張りながらなんとか事業を継続してきたものの、なかなか業績は好転しません。

 

 

 

 

そんなある日、インサイト及びエクスぺはグループ経営戦略の見直しという名目ながら、インサイトを救済する!?ようなカタチでインテリジェンス本体に合併することとなります。
 
 

 


私は合併の話を会議室でよっちゃんから聞いたとき、悔し涙がでてくる一方で「溺死しないで済んだ。。。」という妙な安堵感のようなものが入り混じった複雑な心境であったことを鮮明に覚えています。
 
 
 
 

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2003年~2005年

 


我々が新卒で入社したときに比べると何倍にも組織が大きくなった2003年当時のインテリジェンス本体に戻ると、よっちゃんは人材紹介事業部のゼネラルマネージャーとして、私もマネージャーとして働く機会を頂きました。
 
 
 
 
するとインテリジェンスの給与レンジ合わせる形で、自分の給与が跳ね上がります。インテ本体の人間よりも死ぬほど働いていたつもりだったのに、何もしなくても給与が上がるという切なさ。。。自分たちの3年弱とはなんだったんだろう。。。という嬉しいんだけど悲しい、なんとも妙な気持ちに(苦笑)
 
 
 
 
一方で大きくなった組織でのマネジメントの仕事に全く魅力を感じていなかったよっちゃんは、インサイトのメンバーそれぞれが配属先に馴染みはじめた頃合いをみて、インテリジェンスを辞めることになります。
 
 
 
 
そしてインサイトを共に作ってきたマコトと2人で再び起業に挑戦することに。そのことは、合併が決まったときからなんとなく薄々と感づいていたことでした。
 
 
 
 
よっちゃんは「マコトともう一回やるけど、どうする?ま、やらないよな(苦笑)」と気遣ってくれるように私にも声を掛けてくれましたが、その答えにはお互い暗黙の了解があったのでした。
 
 
 
 
インテリジェンスに残った私は、大きくなった組織でマネジメントをすることに、また、今までとは違った仕事の楽しさを感じはじめます。
 
 
 
 
これまで何かと判断を頼ってしまっていた社長であり上司であったよっちゃんがいなくなったことで、自分でジャッジをすることが増え、一緒に働いてきたアシスタントマネージャー達はみな優秀で的確にサポートしてくれました。そしてなによりチームメンバーに恵まれ、楽しく仕事に取り組めていたのです。
 
 
 
 
またプライベートでも、インサイト時代から付き合っていた彼女との結婚を決意し、マンションを購入。新婚生活が始まるやいなや長女の妊娠も判明、となんとも順風満帆な日常を過ごすうちに31歳となっていました。
 
 
 
 
一方、よっちゃんとマコト、そして後にジョインしたノブの3人は再び起業後、とてつもなくツマずいていたのです。。。
 
 
 
 
事業計画を書きトライしてみては失敗。そしてまた事業計画を書く日々。
 
 
 
 
ネットオークション代行事業、高齢者ターゲットの動画広告配信事業、フェラーリの日本人デザイナーと何かやる!?みたいな話まで。度々新規事業を進める中で私も飲みながら都度話を聞かされていました。
 
 
 
 
「いいじゃん!絶対イケるよ!」
 
 
 
 
ずっと苦労を横で見ていたこともあり、正直、私はそれしか言えませんでした。。。
 
 
 
 
「会社に行っても電話が鳴らないんだぜ。。。」「することねーから、昼間からゴルフの打ちっぱなしに行っちゃったよ。。。」なんて自虐的な冗談を聞きながら、仕事もプライベートも順調な自分がなんだか申し訳ないような気すらしてしまったものです。
 
 
 
 
そんなもがき苦しみむ毎日が続く中、彼らは日銭を稼ぐべく某人材会社の紹介事業の立て直しコンサルティングの仕事を始めます。
 
 
 
 
散々やってきて勝手知ってる人材紹介ビジネス。彼らはハンズオンでクライアントに入ることでその会社の業績をメキメキと上げ、その会社の社長や社員から感謝されることに若干の充実感を感じているようでした。
 
 
 
 
「やっぱり『餅は餅屋』だよな。。。」
 
 
 
 
人材ビジネスにどっぷり浸かってきた自分たちは、もう一度その土俵で勝負したほうがいいのかもしれない!?という思いが芽生えたようです。
 
 
 
 
彼らがインテリジェンスを辞めて、3年の月日が経とうとしていた頃でした。。。
 
 
 
 

2005年 年末

 

 

中途採用において人材紹介会社を活用した際の成功報酬フィーとは、採用した社員の年収の30~35%と一般的な採用コストとしては割高なもの。
 
 
 
 
できれば利用したくないものの、使わざるおえない!?という声がクライアントから漏れ聞こえているような状況でした。
 
 
 
 
求人広告は掲載しても採用できなかったときの掛け捨てリスクがある。一方で人材紹介は高額。
 
 
 
 
であれば、人材紹介会社よりも割安で一律のフィーを頂く「成功報酬型の求人サイト」というビジネスモデルは絶対にイケるはず。
 
 
 
 
よっちゃんは、世の中に存在しなかったその新しいビジネスモデルの事業計画書を作り、新たな資金調達のメドを立てました。
 
 
 
 
そんな折、よっちゃんから私に「ちょっと時間ある?」との連絡が入ります。
 
 
 
 
事業立ち上げの苦労はインサイトで身をもって味わっていました。いや、インサイト時代なんて比較にならないほどの厳しくドンヨリとした彼らの3年間を、私は友人として目の当たりにしていました。
 
 
 
 
待ち合わせの居酒屋に向かう道すがら、私は「誘われたらどうしよう・・・」と、なんとも言えない心境だったのでした。
 
 
 
 
一方、当時のインテリジェンスでは、イケイケな業績を作る為に表面的な売上を作ることが常態化し、皆、疑問を感じながらも組織人としてそれに乗ることが良しとされる環境となり、私も辟易としていたというのも正直なところでした。
 
 
 
 
よっちゃんから新事業についてアツく話を聞いた後、「もう一回力を貸してくれ。一緒にやろう」と言われます。
 
 
 
 
「コレを断ったら『男』ではないな・・・」と自分の中で即答していました。そして、嫁に一言伝えてから翌日よっちゃんに返事したように記憶しています。
 
 
 
 
くしくも、翌年に1人目の長女が生まれることを前に、何かしらの変化を意識し始めていた時期だったのかもしれません。
 
 
 
 

2006年~2008年

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いまでこそ「成功報酬」「採用お祝い金」という求人媒体は掃いて捨てるほどありますが、世界で一番最初の「成功報酬型の求人サイト」は正真正銘、我々の『green』です。ちなみに最初のロゴは小文字(笑)
 

 


再び人材ビジネス領域での勝負を決断したタイミングで、よっちゃんは社名を「I&Gパートナーズ」と変更していました。役員の3人以外にもよく知っている仲間が既に数名ジョインしており、皆、運転資金を稼ぐべく人材紹介にいそしんでいました。
 
 
 
 
私はインテリジェンスの有給休暇が2ヶ月強あったので、その間無給で働くことに。さらによっちゃんから「ちょっと業績ヤバいから予算持ってやってほしい。」と(苦笑)
 
 
 
 
人材紹介ビジネスをやったことのある方であれば、手持ちの候補者がゼロで微々たる案件の中、2か月間で予算3名の決定を出すのは、それなりにタフだとわかってくれるんじゃないかと(苦笑)。しかし、シモゴモ言わずやるしかありません。
 
 
 
 
流石に無給が虚しかったので、2人目決定時には少々インセンティブをもらったのですが、3人目の決定は私の入社後にずれ込んだので確かインセンティブは無かったと思います(笑)
 
 
 
 
2006年3月末でインテリジェンスを退社し、4月からは晴れてI&Gパートナーズへ。時を同じくして銀座のシェアオフィスから虎の門へ移転し、いよいよ2006年夏のgreenカットオーバーに向けて動き始めました。
 
 
 
 
人材紹介チームに運転資金を稼いでもらいながら、マコトと私は2人で営業をスタート。新卒1期生の内定者たちにインターンとしてアポ取りを手伝ってもらいつつ、大車輪のようにクライアントに訪問しまくります。そして受注後は自分で取材に行き、企業紹介記事を書きまくりました。
 
 
 
7月にgreenがカットオーバーしたときの掲載社数は125社。4月から3ヶ月でかき集めた数字でした。
 
 
 
 
なんとか無事にサービスがスタートしつつも、成功報酬の初決定は秋ごろだったと記憶しています。なかなか歯がゆい時間が過ぎ、月間の決定人数も伸び悩んでいました。
 
 
 
 
そう簡単にうまくはいかないと思っていたものの、中途採用は継続して積極的に行っており、greenの広告宣伝費も増大していたので、販管費は増え続けています。
 
 
 
 
よっちゃんは資金調達を意識し、私は再び売上を作るべく人材紹介をすることに。当時は半年毎に組織が変わっていましたが、私のミッションは取り急ぎ売上を作ることでした。
 
 
 
 
インサイトのときのように、溺れそうになりながら息をするような感覚が再びよみがえります。ただ、今回は新たにgreenという自分達が成功を信じるサービスがあったことが大きな違いでした。
 
 
 
 

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2008年~2009年

 

 

 greenは着実に掲載社数を増やしつつも、それに比例するように決定人数はなかなか伸びません。業績も月次で黒字になったり赤字になったりと毎月シビレる感じ。組織は紆余曲折がありながらも拡大し、社員数は40名の規模に。
 
 
 
 
よっちゃんから「何でもいいから売上を作ってくれ」と言われていましたが、私は人材紹介をすることに前向きになれませんでした。いつまでも人材紹介をするためにI&Gに来たわけじゃない、というわがままな気持ちがあったのかもしれません。
 
 
 
 
よっちゃんもなんとなくそれを察してくれていたのか「ヘッドハンティングでもやったら!?」と提案があり、試行錯誤しながらやってみます。
 
 
 
 
リテーナーフィー(着手金)をもらいながら、クライアントの求める候補者を探す。かろうじて決定を作ることはできましたが、いかんせん偶発的でなんとも業績が安定するイメージは持てません。。。
 
 
 
 
他にも営業先でネタを拾っては何でもやりました。企業HPや採用HPの制作、新卒採用コンサルティング、採用アセスメントコンサルティング。受注するための最後のクロージングどころでよっちゃんの力を借りつつ、結構な金額を稼ぎました。
 
 
 
 
私自身大してわかってないにもかかわらず、クライアントへはさも専門家のように語ったり、振る舞ったり(苦笑)。その頃は何かとよっちゃんと2人で案件の話を進めることも多く、社内でも私だけよくわからないこと!?をしながら売上を作っている感じでした。
 
 
 
 
それはそれで非常に楽しかったのですが、社内ではちょっとしたゴタゴタから、創業時からの役員であったマコトは既に退社していました。その後任が自分ではなかったことで、心のどこかで以前よりも会社への気持ちが薄くなってしまっていたのも事実。
 
 
 
 
自分の能力や適性は自覚していたものの、その悔しさを他の社員がやってないことで、誰よりも売上を稼ぐということで、よっちゃんにアピールしていたんだと思います。
 
 
 
 

2009年

 

 

当時人材ビジネスに関わっていた人はリーマンショックにより、会社の業績が半分になるという悪夢のような厳しさを目の当たりにしたことでしょう。

 

 

 

 

我々も御多分に漏れず、人員削減の必要に迫られます。
 
 
 
 
それは、よっちゃんにとって経営者として一番しんどい仕事であったことは間違いありません。彼は「家族主義で全社員が一丸となって会社を創る」ということに強くこだわってきました。そういう考えで一緒に取り組んできた仲間達に対し、お別れの話をしなければいけないのですから。。。
 
 
 
 
社員は半分の20名程度となり、我々も手取り給与をしばらくの間、新卒並みにすることでしのぐことに。
 
 
 
 
もちろんそのことに全く異論はなく、なにより早く会社を黒字化したいという思いだけでした。
 
 
 
 

2010年

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当初、春先には給与を戻そうという話でしたが、年が明けなんとか月次の黒字が見え始めたとき「給与を戻したらまた赤字だな。。。」と当分戻せないことを悟ります。
 
 
 
 
若い社員が多かったこともあり、本当に皆、踏ん張っていました。
 
 
 
 
一方、私はこの春に豊洲に引っ越し、貯金を切り崩しながら生活せざるをえない状況。そんな中、2人目の子どもの妊娠が判明。
 
 
 
 
私自身、37歳になる年。考えてみれば、自分のやりたいことばかり優先してきた結果、この先が見えない状況で経済的にも嫁に迷惑をかけている状況になってしまっていました。
 
 
 
 
これまで嫁から仕事のことも生活費のことも、一言も文句を言われたことはありません。しかし、いつまでこの状態を続けるべきか私自身悩みはじめていました。
 
 
 
 
6月になると新たな資金調達が完了し、リーマンショック後の混乱から社内も多少なりとも落ち着きを取り戻しはじめます。

 

 

 

 

そんなとき、よっちゃんから「給与をコミッション(歩合制)的なカタチにしようかと思ってる」という話を聞きます。
 
 
 
 
私はI&Gに入社して以来、「自分の給与をあげる」ということを考えて仕事したことはありませんでした。よっちゃん同様、何とか会社を存続させる為、成長させる為にがむしゃらにやってきたつもりでした。当時の社員はみな同じ気持ちだったと思います。
 

 

 


そして、私の心は折れてしまいました。
 


 


表参道の地下のバーのようなところで、私は退職の意志を伝えます。
 
 
 
 
週末を挟んだ事もあり、よっちゃんから何度か連絡が入ります。そして、今後の会社の戦略や展望、考えについて丁寧にメールで伝えてくれました。
 
 
 
 
週明けの2010年6月14日。朝会の場で私の退職が皆に伝えられます。そして、その日、よっちゃんが冒頭のブログを記したのでした。
 
 
 
 
 

2016年6月15日

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それからまさに6年後の6月15日。オフィスを麻布十番へ移転し社名も「アトラエ」となったI&Gパートナーズは、東証マザーズに上場の運びとなったのでした。
 


 
 
新卒1期生でインターン中に必死にかつ創意工夫をしながらアポ取りすら楽しんでいた後輩たちは役員となり、すっかり頼もしくなっていました。
 
 

 

 

よっちゃんから「Daiがいなくなってから、業績が向上した!」なんて冗談も言われましたが、あながち間違ってないんじゃないかと(笑)

 

 

 

 

ずっと真剣に誰よりも会社や社員の事を考えていたよっちゃんでしたが、あのブログを書いた日から、よっちゃんは本当に「決意」をし取り組んできたんだと思います。

 

 

 

 

そして、「世界中の人々を魅了する会社を創る」という更なる高みを目指すスタートラインに立ったのでした。

 

 

 

 

よっちゃん、アトラエのみんな、本当におめでとう!

 

 

 

 

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▲インテリジェンス同期の皆で!